2007年2月28日水曜日

プロの書き手がWikipediaにコミットしない理由?

前回の記事の最後に、こう書いた。

学生のリポートから、島原の乱についてのウィキペディアの誤記述に気づいたという先生は、その後ウィキペディアの記事を修正したのだろうか? そのまま放置したのなら残念だ。



Wikipedia(英語版)の島原の乱のtalk page (記事の編集について議論するページ) を見ると、そこにもこういう指摘があった。


Perhaps Prof. Neil Waters can come and fix up the article in the spirit of collaboration etc. - Tragic Baboon (banana receptacle) 12:04, 21 February 2007 (UTC)


(私訳: おそらく、ニール・ウオーターズ教授 [学生の試験答案からウィキペディアの誤記述に気づいた、ミドルベリー大学史学科の先生] が、協働の精神で、この記事を修正してくださるでしょう。)

でもウオーターズ教授が修正する必要はない、と別の人から否定されている。

その後に、次のような指摘があり、さらに議論が続いている。


I find it difficult to understand why a professional who makes his living by disseminating his knowledge would want put his effort to edit at a place like here. Everything you put in here become GFDL. You can't even quote it as your own work once you do that. That's fine for amateurs, but what incentive does the professional have for such a "collaboration"?--75.28.163.95 05:24, 23 February 2007 (UTC)


(私訳: 自分の知識を広めることを生業とするプロが、ここのような場所で編集に力を注ぎたいと思うとは、私にはとうてい考えられないんだけど。ここに載せたものは全部GFDLになる。そうしたら、それを自分の作品として引用することすらできない。アマチュアにとっては問題ないけれど、そんな「協働」のどこに、プロにとってのインセンティブがあるだろうか?)

GFDLというのは、Wikipediaが利用許諾契約として採用しているGNU Free Documentation License (GNU フリー文書利用許諾契約書) のこと。GPL (GNU General Public License) と同様に、利用者が文書の複製、改変、再配布を自由に行うことを保証するが、オリジナルと同じ条件で複製、改変、再配布しなければならないというもの。Wikipediaは投稿者の著作権を認めないわけではなく、その反対で、むしろ著作権をそのように行使することに合意したものとして投稿を受け付けている。たぶん quote というのはいわゆる「引用 (citation)」ではなくて、自分がWikipediaに投稿した文章を自著作にも組み込むことを指していて、それ自体はできるんだけれども、GFDLを適用しないといけない、それではプロの書き手は困るんじゃないか、ということなのだろう。

さらに、いや、プロは自分自身の成果をWikipediaに出典として引用することができるというインセンティブがあるじゃないか、いやいや、それは「セルフ・プロモーションの禁止」に抵触するからダメだ、いやいや、ちゃんと記事に関係していてセルフ・プロモーション目的でなく、その記述をめぐる利害対立に関係していなければ認められるんだ、という議論が続いている。

このように、プロにとってのインセンティブという視点で議論が進んでいるが、川瀬さんの「川瀬のみやこ物語 episode2: ウィキペディアの使い方」には、「『そこまで暇じゃない』『名も知らぬ誰かに勝手に書き替えられるかも知れないという徒労感』」という理由が挙がっていた。

それから、sumita-mさん経由で知った、アリアドネの「ご自分の専門分野の記述に関して、ウィキペディア日本語版をどう評価されますか?」というアンケートの結果も興味深い。

Wikipediaは投稿者が守るべき基本方針・ガイドラインを掲げている (英語日本語) が、それに反する記事もある。例えば、最近話題の奥谷禮子氏に関する記事にはかなり主観的な評価のまじった記述が見られる。ノート を見ると、それらの記述に対して出典を示すべき、という異論に対して、投稿者が「論理の正当性」を盾に反論している。これなどは、基本方針の「検証可能なことだけを書く」、「出典を明記する」、さらには「独自(未発表)の研究は載せない」に明らかに反していると思うのだが……。こういう、理想と現実の乖離が散見されるのも事実だ。茂木健一郎氏・養老孟司氏の件も記憶に新しい。

私自身は、冒頭に書いたように、間違っていたら修正できるんだからすればいいのに、と今でも単純に考えているのだが、そういうふうにコミットすることを前提に作られている、ということを承知しているかどうかが、過剰な期待や幻滅に陥らない鍵だと思う。

2007年2月23日金曜日

ウィキペディアからの引用禁止をめぐって

asahi.com:ウィキペディア頼み、誤答続々 米大学が試験で引用禁止 - 国際

Middlebury College - Wikipedia, the free encyclopedia

History department makes news with its stand on student use of Wikipedia (Middlebury Collegeのニュースリリース)

このニュースについてはいろいろ考えるところがあるのだが、とりあえず。

* ネット上のソースからの引用について、大学・学部として方針を示したという例は初めて聞いた。教員が個別に指導、対処することはもちろんあるけれど(私もそうしてきたが)。たしかに、統一方針を出したほうが、いろんな講義を選択する学生にとって不公平がないかもしれない。

* ウィキペディアからの引用を認めない、という方針は単純明快でわかりやすい。しかし、 "Students are responsible for the accuracy of information they provide," (Middlebury Collegeのニュースリリース) と、学生側には高いモラルを要求しておきながら、この単純明快な方針だけでは、教える側の責任をないがしろにしているようにも見える。

学生が今のネット環境に慣れていることを前提に、ネット上のソースを単に無視するのでなく、批判的に参照するように指導することのほうが有益だ。とは言え、期末の試験・リポートではどうしようもないので、私は授業中の提出課題でそういう要素を盛り込むようにしている。

* 出典を明記しない引用は論外。これは引用ではなく盗作。授業中で口をすっぱくして戒めてきたし、そのようなリポートを提出した学生には単位を与えない方針で臨んできたので、さすがにこれはほとんどなくなった。

* 学生のリポートから、島原の乱についてのウィキペディアの誤記述に気づいたという先生は、その後ウィキペディアの記事を修正したのだろうか? そのまま放置したのなら残念だ。

2007年2月18日日曜日

調べる、資料化する、共有する

昨日は、東京大学創立130周年記念公開シンポジウム「知の構造化と図書館・博物館・美術館・文書館 − 連携に果たす大学の役割」を聴講しに行った。

「知の構造化」というのは小宮山宏・東大総長の掲げるスローガンで、文系の学問領域ではそれが何を意味し、またそれを進めるために何が必要か、という問いが出発点にあったようだった。3人の発表者、3人のコメンテーターの方々の知見がとても深く、考えさせられた。

デジタル化とインターネットの普及が進むこの時代に、領域横断的な資料へのアクセスやメタデータの標準化が必要なことは十分認識しつつも、資料の扱い方の差異にも目を向ける必要があること。構造化とはむしろ、対象を資料化して研究するというプロセスそのものを自覚的にとらえ直し、根拠にもとづいて組み直していくことであるということ。そのあたりも含めて共有化のプラットフォームや人材育成のプログラムをデザインしていくことが、人文科学の知をこれからも豊かにしていくための鍵なんだ、というふうに理解した。

10日に最終シンポジウムを終えた國學院大學でのプロジェクト、「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」でも、結局はそこがキーポイントだったんだということがわかってきた。現時点で公開している学術資料データベースのサイト上では、そのあたりのことが利用者に伝わりにくいので、現在準備中のリニューアル版では改善する予定だ。