2007年5月25日金曜日

パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド

世界同時公開の今日、観に行った。この世界同時公開というのは海賊版対策なのだそうだ。つまり本国アメリカでの公開後、海賊版のDVDがアジア市場などに出回って、興行成績を低下させるのを抑えるためらしい。

3時間の超娯楽大作で、なかなか見応えがあった。それにしても、交易によって最大の利益を得るために海賊を滅ぼそうとする勢力が、海賊たちの団結によって倒されるというストーリー、そしてこの作品をアメリカで知的財産権保護強化をリードしてきたウォルト・ディズニー社が制作したことに、強烈な皮肉を感じるのだが。

2007年5月19日土曜日

JCMCの特集

Journal of Computer-Mediated Communication の特集、Cross-Cultural Perspectives on Religion and Computer-Mediated Communication が掲載されました。

JCMC Vol 12 Issue 3

一昨年のIAHR、昨年のAoIRでお世話になった Charles Ess さんが編集を務め (川端亮さんと私が協力)、日本からは深水顕真さん、田村貴紀さん・川端さん、渡辺光一さんが寄稿しています。

2007年5月12日土曜日

地球交響曲第六番

昼に恵比寿へ散歩に行ったら、ガーデンプレイスにある東京都写真美術館ホールで『地球交響曲(ガイアシンフォニー) 第六番』を上映していた。龍村仁監督による超有名なドキュメンタリー映画のシリーズの最新作だが、残念ながら私は今まで第一〜五番を観たことがなかった。ちょうどいい機会と思い、ホールに入った。

「虚空の音」というテーマで、何人かの日本のミュージシャンの演奏と、海外の著名な演奏家へのインタビュー、そして最後にクジラの歌を研究している海洋生物学者へのインタビューからなる内容だったが、なかでも私がいいな、と感じたのは、米アイダホ州に住むピアニストで、「私の使命は音楽の通り道になること」と語る、ケリー・ヨストのインタビューだった。この人の音楽家としての人生に対する謙虚さ、厳しさは、自然の完全さの認識、すべては予定されているという認識と深く結びついている。アイダホの大自然の中で車を運転しながら、カーステレオで自分の演奏の録音を聴いていたら、ふっと「これは自分が演ったんじゃない」と感じた、というエピソードも興味深かった。

東京都写真美術館では5月29日から6月8日まで、第一番〜第六番を一挙上映するそうだ。

2007年5月1日火曜日

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』


先月、アメリカのSF作家、カート・ヴォネガット・ジュニアが亡くなった。やはり、名前は知っていても作品をじっくりと読んだ経験がなかったので、本書を注文。奥付を見ると2007年4月30日22刷とあるので、訃報を受けて版元に問い合わせ・注文が殺到した結果増刷されたものだろう。私もその一人ということになる。

ヴォネガットは第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜となり、ドレスデンの収容施設で連合国軍による大爆撃を体験した。どうしたらその体験を書くことができるのか、という問いに対する答えが本書ということになる。「こんなに短い、ごたごたした、調子っぱずれの本」(30頁)。でもそこがすばらしい。

初めて読んだのに、全編に満ちた残酷な笑いのセンスには既視感というかなじみがある感じがわいてくる。自分の好きな映画監督(テリー・ギリアム、コーエン兄弟あたり)の作品に通じるものがあるからだろうか。

2007年4月26日木曜日

スタニスワフ・レム『大失敗』


装訂の美しさに惹かれて買った。新聞等の書評にもネット上の情報にも目を通さず、外部の関連情報をシャットアウトしてひたすら読み進めていったのだが、読み終えた後、そうしたことでこの作品の魅力を味わえたと実感する。支点のない情報が錯綜し状況が刻々と変化する中で登場人物たちが討議し、いくつかの有力な仮説が浮かび上がっては消えていく。そういう様子は、物語の力点や結末が見えていたら、あまり耐えられないだろうから。

そういうわけでここでもあまり作品内容の紹介はしたくないのだが、最低限のことだけ記しておく。先日も、「地球型生物が住める可能性がある太陽系外の惑星を、ヨーロッパ南天天文台(チリ)の研究チームが世界で初めて発見した」というニュースがあったが、そもそも、地球の他に知的生命体がいる可能性のある天体が発見されたとして、私たちはその異星人に会いたいと思うか? それはなぜか? 会ってどうするの? という疑問がある。去年読んだグレッグ・イーガンの『ディアスポラ』もその疑問に関係する小説として興味深く読んだが、この『大失敗』も同じ疑問に関係している。

異星人との相互理解の困難さ、不可能性については、私たちの世界の有り様から簡単に類推することのできる、きわめて説得力のある設定が用意されている。そこで、どうやってその困難を乗り越えていくことができるのか、というところに意識が前のめりになっていく。しかし、そもそも会ってどうするの? の部分についてわかりやすい答えが用意されているわけではない。むしろ、こういう困難さの中に、何としてもコンタクトを成功させたいという欲望が基礎づけられてしまっているのではないか、という疑いが頭をもたげてくる。

2007年3月31日土曜日

復元二題

熊本県人吉市と福岡県筑紫野市、太宰府市に行ってきた。目的についてはいずれ発表する機会があると思うので、ここでは寄り道したところについて記しておきたい。



人吉市は、JR人吉駅前から球磨川をはさんで人吉市役所のあたりまでが市街地になっている。徒歩でぐるりと回ってみた。人吉城址に近づくと、長い塀と櫓が目にとまる。壁の白さがまぶしい。

この長塀と櫓は、明治初めに解体されてあとかたもなくなっていたが、近年、発掘調査と、長塀と櫓があった当時に撮影された古写真をもとに、熊本県が復元したのだそうだ。史跡として復元するためには当時の形を実証する資料が必要なわけで、そういうところに古写真が決定的な役割を果たした例として、興味深い。



所かわって、太宰府では、おととしオープンした九州国立博物館に行った。巨大な建物にまず驚くが、中身も最先端技術や新しい工夫が盛り沢山だった。触れる展示というのはここでも取り入れられていて、銅鐸や銅鼓を叩いたり、遣唐使船の積荷だったということで香木や香辛料などの匂いをかいだりといった体験ができる。入ってはみなかったが、子ども向けの体験コーナーもある。また、ボランティアの案内係の方が何人かいらっしゃって、質問に答えてくださったり、見どころなどを解説してくださる。親しみ、暖かみのある雰囲気だ。

大阪市立東洋陶磁美術館収蔵の朝鮮白磁のコーナーに、ひときわ大きな白磁の壺が展示されていた (→九州国立博物館)。志賀直哉から東大寺管長に贈られたものだそうだが、1995年、東大寺に泥棒が入ったとき、泥棒がこれを割って粉々にしていったそうだ。それを東洋陶磁美術館が6か月かけて修復したということだが、その粉々の状態を撮影した写真も添えられていて、よくもまあ、ここまで完璧に復元できたものだと感嘆した。泥棒はまだつかまっていないそうだが、これを見たらさすがに改悛するんじゃないだろうか。

2007年3月18日日曜日

池田晶子『人生のほんとう』




2月23日に亡くなった、池田晶子さんの講演録『人生のほんとう』(トランスビュー、2006年)を読んだ。

訃報記事を見て、そういえば今まで池田さんの著書をちゃんと読んだことがなかったと思って、手にした。「池田某は確実に死にます。皆さんもそうです。確実に死にますが、しかし「死ぬ」という言葉すら超えた「存在」というものに気がついてしまうと、池田は死ぬが私は死なないと、そういう変な言い方が出てきたりします。」(175頁)とか、「つまり、死者の言葉をわれわれは読んでいるわけです。」(179頁)といったくだりがあり、ドキリとする。

常識・社会・年齢・宗教・魂・存在という、6つのテーマに沿いつつ、「存在とは何か」という哲学的な問いを起点として人生を考えるという内容。

この本で繰り返し強調される、自分が生きているということの形式的な「謎」に、私が記憶するかぎり初めて思い至ったときの体験を回想しながら読み進めた。

私の場合、小学生のころ、遠足で山登りをしていたときにふいに思い至った。山頂にほど近いところで、汗をかき、足を痛めて、眼前の山道を見ているこの私はいったい何なんだ。視界の右端に自分の右手が見え、左端に自分の左手が見える。正面には山道がある。当たり前のことのようだが、このような視界でもって今ここを生きているのは、そしてこんなことを考えているのは私以外の何者でもないのではないか。

そういう体験をした後は、ほかならぬこの私が20世紀(そのときはまだ20世紀だった)の日本に生きていることの不思議や、私が死んだらどうなるんだろうということをときおり考えるようになった。また、山登りをすると再び同じような体験をした。

この本には、宗教やネット社会など、私も関心をもっているさまざまな事柄について興味深い知見が記されているけれど、そちらよりも、この私にとって起点となる哲学的体験を思い返させてもらえたことが貴重な読書経験になった。