2007年3月31日土曜日

復元二題

熊本県人吉市と福岡県筑紫野市、太宰府市に行ってきた。目的についてはいずれ発表する機会があると思うので、ここでは寄り道したところについて記しておきたい。



人吉市は、JR人吉駅前から球磨川をはさんで人吉市役所のあたりまでが市街地になっている。徒歩でぐるりと回ってみた。人吉城址に近づくと、長い塀と櫓が目にとまる。壁の白さがまぶしい。

この長塀と櫓は、明治初めに解体されてあとかたもなくなっていたが、近年、発掘調査と、長塀と櫓があった当時に撮影された古写真をもとに、熊本県が復元したのだそうだ。史跡として復元するためには当時の形を実証する資料が必要なわけで、そういうところに古写真が決定的な役割を果たした例として、興味深い。



所かわって、太宰府では、おととしオープンした九州国立博物館に行った。巨大な建物にまず驚くが、中身も最先端技術や新しい工夫が盛り沢山だった。触れる展示というのはここでも取り入れられていて、銅鐸や銅鼓を叩いたり、遣唐使船の積荷だったということで香木や香辛料などの匂いをかいだりといった体験ができる。入ってはみなかったが、子ども向けの体験コーナーもある。また、ボランティアの案内係の方が何人かいらっしゃって、質問に答えてくださったり、見どころなどを解説してくださる。親しみ、暖かみのある雰囲気だ。

大阪市立東洋陶磁美術館収蔵の朝鮮白磁のコーナーに、ひときわ大きな白磁の壺が展示されていた (→九州国立博物館)。志賀直哉から東大寺管長に贈られたものだそうだが、1995年、東大寺に泥棒が入ったとき、泥棒がこれを割って粉々にしていったそうだ。それを東洋陶磁美術館が6か月かけて修復したということだが、その粉々の状態を撮影した写真も添えられていて、よくもまあ、ここまで完璧に復元できたものだと感嘆した。泥棒はまだつかまっていないそうだが、これを見たらさすがに改悛するんじゃないだろうか。

2007年3月18日日曜日

池田晶子『人生のほんとう』




2月23日に亡くなった、池田晶子さんの講演録『人生のほんとう』(トランスビュー、2006年)を読んだ。

訃報記事を見て、そういえば今まで池田さんの著書をちゃんと読んだことがなかったと思って、手にした。「池田某は確実に死にます。皆さんもそうです。確実に死にますが、しかし「死ぬ」という言葉すら超えた「存在」というものに気がついてしまうと、池田は死ぬが私は死なないと、そういう変な言い方が出てきたりします。」(175頁)とか、「つまり、死者の言葉をわれわれは読んでいるわけです。」(179頁)といったくだりがあり、ドキリとする。

常識・社会・年齢・宗教・魂・存在という、6つのテーマに沿いつつ、「存在とは何か」という哲学的な問いを起点として人生を考えるという内容。

この本で繰り返し強調される、自分が生きているということの形式的な「謎」に、私が記憶するかぎり初めて思い至ったときの体験を回想しながら読み進めた。

私の場合、小学生のころ、遠足で山登りをしていたときにふいに思い至った。山頂にほど近いところで、汗をかき、足を痛めて、眼前の山道を見ているこの私はいったい何なんだ。視界の右端に自分の右手が見え、左端に自分の左手が見える。正面には山道がある。当たり前のことのようだが、このような視界でもって今ここを生きているのは、そしてこんなことを考えているのは私以外の何者でもないのではないか。

そういう体験をした後は、ほかならぬこの私が20世紀(そのときはまだ20世紀だった)の日本に生きていることの不思議や、私が死んだらどうなるんだろうということをときおり考えるようになった。また、山登りをすると再び同じような体験をした。

この本には、宗教やネット社会など、私も関心をもっているさまざまな事柄について興味深い知見が記されているけれど、そちらよりも、この私にとって起点となる哲学的体験を思い返させてもらえたことが貴重な読書経験になった。

2007年3月7日水曜日

ドリームガールズ

仕事の合間をぬって観てきた。

シュープリームスをモデルにしたブロードウェイ・ミュージカルの映画化。ストーリーは紆余曲折あるものの、細かいところは気持ちいいくらい端折って、全編、歌ときらびやかなショーの映像に乗って、どんどん進んでいく。ラストの大団円もミュージカル的だ。

やはり評判のとおり、ジェニファー・ハドソン演じるエフィに最も感情移入させられた。自他ともに認める歌唱力にもかかわらず、プライドが高く妥協できない性格が災いして、しまいにはトラブルメーカー扱いされていく。こういうときのいらだち感、だれしも経験があると思う。強引かもしれないが、町田康『告白』の主人公にも少し通じるところがあるような気がした。

エフィだってもっとうまく売り込めば人気歌手になれただろうに、アレサ・フランクリンのように……と思ったら、アレサ・フランクリン当人の前で Think を歌う映像が YouTube にあった。→YouTube - Jennifer Hudson - Think

ビヨンセはこの映画では抑え気味で、最後に近くなって Listen という曲でようやくパワフルな歌唱が炸裂する。彼女に期待していた人はフラストレーションが溜まったかもしれない。ビヨンセも、大御所ティナ・ターナーの前で熱唱する映像があった。→YouTube - Beyonce - Proud Mary - 2005 Kennedy Center Honors ティナ・ターナーの横にいるのは、ジョージ・ブッシュ?

2007年3月1日木曜日

インセンティブというパラダイムの妥当性

昨日書いたことや、それから以前に学生が大学の授業改善や入学広報などに自主的に参画することについてちょっと書いたこととも関係するのだが……。

私は、なぜだかわからないけれども、「インセンティブ」という考え方に強い心理的抵抗感を覚える。

他人から与えられるインセンティブもそうだが、自己管理の方法としても、よく「自分にごほうびを与える」ということが勧められたりする。しかしそういうことには全く乗り気がしない。怠け癖が治らないのもそのせいか。そのわりに、後で冷静に考えるとつまらないことにがぜんやる気を起こすこともある。

先日パオロ・マッツァリーノの『つっこみ力』(ちくま新書)を読んでいたら、インセンティブ批判が出てきた。これはわが意を得たり、か? と思いつつ、ところどころ文脈が不明なところに首をかしげながら読んだけれども、後でこの本を取り上げたブログを拾い読みしたら、前著の『反社会学の不埒な研究報告』の内容について経済学者と激しく論争したことが、このくだりの背景にあるらしいことがわかった(Entertainments Lovers Live: マッつぁん、またまた必死だな)。私は、あのスタンダード 反社会学講座というサイトを、誰に求められるでもなく発信しつづけてきた作者ならではの実感もあるのかな、と勝手に推測していたのだが。

私も経済学のことはわからないので、いろいろ調べながら考えてみよう。