2007年4月26日木曜日
スタニスワフ・レム『大失敗』
装訂の美しさに惹かれて買った。新聞等の書評にもネット上の情報にも目を通さず、外部の関連情報をシャットアウトしてひたすら読み進めていったのだが、読み終えた後、そうしたことでこの作品の魅力を味わえたと実感する。支点のない情報が錯綜し状況が刻々と変化する中で登場人物たちが討議し、いくつかの有力な仮説が浮かび上がっては消えていく。そういう様子は、物語の力点や結末が見えていたら、あまり耐えられないだろうから。
そういうわけでここでもあまり作品内容の紹介はしたくないのだが、最低限のことだけ記しておく。先日も、「地球型生物が住める可能性がある太陽系外の惑星を、ヨーロッパ南天天文台(チリ)の研究チームが世界で初めて発見した」というニュースがあったが、そもそも、地球の他に知的生命体がいる可能性のある天体が発見されたとして、私たちはその異星人に会いたいと思うか? それはなぜか? 会ってどうするの? という疑問がある。去年読んだグレッグ・イーガンの『ディアスポラ』もその疑問に関係する小説として興味深く読んだが、この『大失敗』も同じ疑問に関係している。
異星人との相互理解の困難さ、不可能性については、私たちの世界の有り様から簡単に類推することのできる、きわめて説得力のある設定が用意されている。そこで、どうやってその困難を乗り越えていくことができるのか、というところに意識が前のめりになっていく。しかし、そもそも会ってどうするの? の部分についてわかりやすい答えが用意されているわけではない。むしろ、こういう困難さの中に、何としてもコンタクトを成功させたいという欲望が基礎づけられてしまっているのではないか、という疑いが頭をもたげてくる。
2007年3月31日土曜日
復元二題
熊本県人吉市と福岡県筑紫野市、太宰府市に行ってきた。目的についてはいずれ発表する機会があると思うので、ここでは寄り道したところについて記しておきたい。

人吉市は、JR人吉駅前から球磨川をはさんで人吉市役所のあたりまでが市街地になっている。徒歩でぐるりと回ってみた。人吉城址に近づくと、長い塀と櫓が目にとまる。壁の白さがまぶしい。
この長塀と櫓は、明治初めに解体されてあとかたもなくなっていたが、近年、発掘調査と、長塀と櫓があった当時に撮影された古写真をもとに、熊本県が復元したのだそうだ。史跡として復元するためには当時の形を実証する資料が必要なわけで、そういうところに古写真が決定的な役割を果たした例として、興味深い。

所かわって、太宰府では、おととしオープンした九州国立博物館に行った。巨大な建物にまず驚くが、中身も最先端技術や新しい工夫が盛り沢山だった。触れる展示というのはここでも取り入れられていて、銅鐸や銅鼓を叩いたり、遣唐使船の積荷だったということで香木や香辛料などの匂いをかいだりといった体験ができる。入ってはみなかったが、子ども向けの体験コーナーもある。また、ボランティアの案内係の方が何人かいらっしゃって、質問に答えてくださったり、見どころなどを解説してくださる。親しみ、暖かみのある雰囲気だ。
大阪市立東洋陶磁美術館収蔵の朝鮮白磁のコーナーに、ひときわ大きな白磁の壺が展示されていた (→九州国立博物館)。志賀直哉から東大寺管長に贈られたものだそうだが、1995年、東大寺に泥棒が入ったとき、泥棒がこれを割って粉々にしていったそうだ。それを東洋陶磁美術館が6か月かけて修復したということだが、その粉々の状態を撮影した写真も添えられていて、よくもまあ、ここまで完璧に復元できたものだと感嘆した。泥棒はまだつかまっていないそうだが、これを見たらさすがに改悛するんじゃないだろうか。

人吉市は、JR人吉駅前から球磨川をはさんで人吉市役所のあたりまでが市街地になっている。徒歩でぐるりと回ってみた。人吉城址に近づくと、長い塀と櫓が目にとまる。壁の白さがまぶしい。
この長塀と櫓は、明治初めに解体されてあとかたもなくなっていたが、近年、発掘調査と、長塀と櫓があった当時に撮影された古写真をもとに、熊本県が復元したのだそうだ。史跡として復元するためには当時の形を実証する資料が必要なわけで、そういうところに古写真が決定的な役割を果たした例として、興味深い。

所かわって、太宰府では、おととしオープンした九州国立博物館に行った。巨大な建物にまず驚くが、中身も最先端技術や新しい工夫が盛り沢山だった。触れる展示というのはここでも取り入れられていて、銅鐸や銅鼓を叩いたり、遣唐使船の積荷だったということで香木や香辛料などの匂いをかいだりといった体験ができる。入ってはみなかったが、子ども向けの体験コーナーもある。また、ボランティアの案内係の方が何人かいらっしゃって、質問に答えてくださったり、見どころなどを解説してくださる。親しみ、暖かみのある雰囲気だ。
大阪市立東洋陶磁美術館収蔵の朝鮮白磁のコーナーに、ひときわ大きな白磁の壺が展示されていた (→九州国立博物館)。志賀直哉から東大寺管長に贈られたものだそうだが、1995年、東大寺に泥棒が入ったとき、泥棒がこれを割って粉々にしていったそうだ。それを東洋陶磁美術館が6か月かけて修復したということだが、その粉々の状態を撮影した写真も添えられていて、よくもまあ、ここまで完璧に復元できたものだと感嘆した。泥棒はまだつかまっていないそうだが、これを見たらさすがに改悛するんじゃないだろうか。
2007年3月18日日曜日
池田晶子『人生のほんとう』
2月23日に亡くなった、池田晶子さんの講演録『人生のほんとう』(トランスビュー、2006年)を読んだ。
訃報記事を見て、そういえば今まで池田さんの著書をちゃんと読んだことがなかったと思って、手にした。「池田某は確実に死にます。皆さんもそうです。確実に死にますが、しかし「死ぬ」という言葉すら超えた「存在」というものに気がついてしまうと、池田は死ぬが私は死なないと、そういう変な言い方が出てきたりします。」(175頁)とか、「つまり、死者の言葉をわれわれは読んでいるわけです。」(179頁)といったくだりがあり、ドキリとする。
常識・社会・年齢・宗教・魂・存在という、6つのテーマに沿いつつ、「存在とは何か」という哲学的な問いを起点として人生を考えるという内容。
この本で繰り返し強調される、自分が生きているということの形式的な「謎」に、私が記憶するかぎり初めて思い至ったときの体験を回想しながら読み進めた。
私の場合、小学生のころ、遠足で山登りをしていたときにふいに思い至った。山頂にほど近いところで、汗をかき、足を痛めて、眼前の山道を見ているこの私はいったい何なんだ。視界の右端に自分の右手が見え、左端に自分の左手が見える。正面には山道がある。当たり前のことのようだが、このような視界でもって今ここを生きているのは、そしてこんなことを考えているのは私以外の何者でもないのではないか。
そういう体験をした後は、ほかならぬこの私が20世紀(そのときはまだ20世紀だった)の日本に生きていることの不思議や、私が死んだらどうなるんだろうということをときおり考えるようになった。また、山登りをすると再び同じような体験をした。
この本には、宗教やネット社会など、私も関心をもっているさまざまな事柄について興味深い知見が記されているけれど、そちらよりも、この私にとって起点となる哲学的体験を思い返させてもらえたことが貴重な読書経験になった。
2007年3月7日水曜日
ドリームガールズ
仕事の合間をぬって観てきた。
シュープリームスをモデルにしたブロードウェイ・ミュージカルの映画化。ストーリーは紆余曲折あるものの、細かいところは気持ちいいくらい端折って、全編、歌ときらびやかなショーの映像に乗って、どんどん進んでいく。ラストの大団円もミュージカル的だ。
やはり評判のとおり、ジェニファー・ハドソン演じるエフィに最も感情移入させられた。自他ともに認める歌唱力にもかかわらず、プライドが高く妥協できない性格が災いして、しまいにはトラブルメーカー扱いされていく。こういうときのいらだち感、だれしも経験があると思う。強引かもしれないが、町田康『告白』の主人公にも少し通じるところがあるような気がした。
エフィだってもっとうまく売り込めば人気歌手になれただろうに、アレサ・フランクリンのように……と思ったら、アレサ・フランクリン当人の前で Think を歌う映像が YouTube にあった。→YouTube - Jennifer Hudson - Think
ビヨンセはこの映画では抑え気味で、最後に近くなって Listen という曲でようやくパワフルな歌唱が炸裂する。彼女に期待していた人はフラストレーションが溜まったかもしれない。ビヨンセも、大御所ティナ・ターナーの前で熱唱する映像があった。→YouTube - Beyonce - Proud Mary - 2005 Kennedy Center Honors ティナ・ターナーの横にいるのは、ジョージ・ブッシュ?
シュープリームスをモデルにしたブロードウェイ・ミュージカルの映画化。ストーリーは紆余曲折あるものの、細かいところは気持ちいいくらい端折って、全編、歌ときらびやかなショーの映像に乗って、どんどん進んでいく。ラストの大団円もミュージカル的だ。
やはり評判のとおり、ジェニファー・ハドソン演じるエフィに最も感情移入させられた。自他ともに認める歌唱力にもかかわらず、プライドが高く妥協できない性格が災いして、しまいにはトラブルメーカー扱いされていく。こういうときのいらだち感、だれしも経験があると思う。強引かもしれないが、町田康『告白』の主人公にも少し通じるところがあるような気がした。
エフィだってもっとうまく売り込めば人気歌手になれただろうに、アレサ・フランクリンのように……と思ったら、アレサ・フランクリン当人の前で Think を歌う映像が YouTube にあった。→YouTube - Jennifer Hudson - Think
ビヨンセはこの映画では抑え気味で、最後に近くなって Listen という曲でようやくパワフルな歌唱が炸裂する。彼女に期待していた人はフラストレーションが溜まったかもしれない。ビヨンセも、大御所ティナ・ターナーの前で熱唱する映像があった。→YouTube - Beyonce - Proud Mary - 2005 Kennedy Center Honors ティナ・ターナーの横にいるのは、ジョージ・ブッシュ?
2007年3月2日金曜日
フォーラム「デジタル情報を生かした教材作成に向けて」
学術フロンティア・画像資料研究フォーラム(10)人文科学と画像資料研究 —デジタル情報を生かした教材作成にむけて—
明日、3月3日(土)開催です。
神門典子先生・井上洋一先生のご発表は、国立情報学研究所のCEAXプロジェクトに関するものです。
ご関心のある方は、ぜひご参加ください。
明日、3月3日(土)開催です。
神門典子先生・井上洋一先生のご発表は、国立情報学研究所のCEAXプロジェクトに関するものです。
ご関心のある方は、ぜひご参加ください。
2007年3月1日木曜日
インセンティブというパラダイムの妥当性
昨日書いたことや、それから以前に学生が大学の授業改善や入学広報などに自主的に参画することについてちょっと書いたこととも関係するのだが……。
私は、なぜだかわからないけれども、「インセンティブ」という考え方に強い心理的抵抗感を覚える。
他人から与えられるインセンティブもそうだが、自己管理の方法としても、よく「自分にごほうびを与える」ということが勧められたりする。しかしそういうことには全く乗り気がしない。怠け癖が治らないのもそのせいか。そのわりに、後で冷静に考えるとつまらないことにがぜんやる気を起こすこともある。
先日パオロ・マッツァリーノの『つっこみ力』
(ちくま新書)を読んでいたら、インセンティブ批判が出てきた。これはわが意を得たり、か? と思いつつ、ところどころ文脈が不明なところに首をかしげながら読んだけれども、後でこの本を取り上げたブログを拾い読みしたら、前著の『反社会学の不埒な研究報告』の内容について経済学者と激しく論争したことが、このくだりの背景にあるらしいことがわかった(Entertainments Lovers Live: マッつぁん、またまた必死だな)。私は、あのスタンダード 反社会学講座というサイトを、誰に求められるでもなく発信しつづけてきた作者ならではの実感もあるのかな、と勝手に推測していたのだが。
私も経済学のことはわからないので、いろいろ調べながら考えてみよう。
私は、なぜだかわからないけれども、「インセンティブ」という考え方に強い心理的抵抗感を覚える。
他人から与えられるインセンティブもそうだが、自己管理の方法としても、よく「自分にごほうびを与える」ということが勧められたりする。しかしそういうことには全く乗り気がしない。怠け癖が治らないのもそのせいか。そのわりに、後で冷静に考えるとつまらないことにがぜんやる気を起こすこともある。
先日パオロ・マッツァリーノの『つっこみ力』
私も経済学のことはわからないので、いろいろ調べながら考えてみよう。
2007年2月28日水曜日
プロの書き手がWikipediaにコミットしない理由?
前回の記事の最後に、こう書いた。
Wikipedia(英語版)の島原の乱のtalk page (記事の編集について議論するページ) を見ると、そこにもこういう指摘があった。
(私訳: おそらく、ニール・ウオーターズ教授 [学生の試験答案からウィキペディアの誤記述に気づいた、ミドルベリー大学史学科の先生] が、協働の精神で、この記事を修正してくださるでしょう。)
でもウオーターズ教授が修正する必要はない、と別の人から否定されている。
その後に、次のような指摘があり、さらに議論が続いている。
(私訳: 自分の知識を広めることを生業とするプロが、ここのような場所で編集に力を注ぎたいと思うとは、私にはとうてい考えられないんだけど。ここに載せたものは全部GFDLになる。そうしたら、それを自分の作品として引用することすらできない。アマチュアにとっては問題ないけれど、そんな「協働」のどこに、プロにとってのインセンティブがあるだろうか?)
GFDLというのは、Wikipediaが利用許諾契約として採用しているGNU Free Documentation License (GNU フリー文書利用許諾契約書) のこと。GPL (GNU General Public License) と同様に、利用者が文書の複製、改変、再配布を自由に行うことを保証するが、オリジナルと同じ条件で複製、改変、再配布しなければならないというもの。Wikipediaは投稿者の著作権を認めないわけではなく、その反対で、むしろ著作権をそのように行使することに合意したものとして投稿を受け付けている。たぶん quote というのはいわゆる「引用 (citation)」ではなくて、自分がWikipediaに投稿した文章を自著作にも組み込むことを指していて、それ自体はできるんだけれども、GFDLを適用しないといけない、それではプロの書き手は困るんじゃないか、ということなのだろう。
さらに、いや、プロは自分自身の成果をWikipediaに出典として引用することができるというインセンティブがあるじゃないか、いやいや、それは「セルフ・プロモーションの禁止」に抵触するからダメだ、いやいや、ちゃんと記事に関係していてセルフ・プロモーション目的でなく、その記述をめぐる利害対立に関係していなければ認められるんだ、という議論が続いている。
このように、プロにとってのインセンティブという視点で議論が進んでいるが、川瀬さんの「川瀬のみやこ物語 episode2: ウィキペディアの使い方」には、「『そこまで暇じゃない』『名も知らぬ誰かに勝手に書き替えられるかも知れないという徒労感』」という理由が挙がっていた。
それから、sumita-mさん経由で知った、アリアドネの「ご自分の専門分野の記述に関して、ウィキペディア日本語版をどう評価されますか?」というアンケートの結果も興味深い。
Wikipediaは投稿者が守るべき基本方針・ガイドラインを掲げている (英語、日本語) が、それに反する記事もある。例えば、最近話題の奥谷禮子氏に関する記事にはかなり主観的な評価のまじった記述が見られる。ノート を見ると、それらの記述に対して出典を示すべき、という異論に対して、投稿者が「論理の正当性」を盾に反論している。これなどは、基本方針の「検証可能なことだけを書く」、「出典を明記する」、さらには「独自(未発表)の研究は載せない」に明らかに反していると思うのだが……。こういう、理想と現実の乖離が散見されるのも事実だ。茂木健一郎氏・養老孟司氏の件も記憶に新しい。
私自身は、冒頭に書いたように、間違っていたら修正できるんだからすればいいのに、と今でも単純に考えているのだが、そういうふうにコミットすることを前提に作られている、ということを承知しているかどうかが、過剰な期待や幻滅に陥らない鍵だと思う。
学生のリポートから、島原の乱についてのウィキペディアの誤記述に気づいたという先生は、その後ウィキペディアの記事を修正したのだろうか? そのまま放置したのなら残念だ。
Wikipedia(英語版)の島原の乱のtalk page (記事の編集について議論するページ) を見ると、そこにもこういう指摘があった。
Perhaps Prof. Neil Waters can come and fix up the article in the spirit of collaboration etc. - Tragic Baboon (banana receptacle) 12:04, 21 February 2007 (UTC)
(私訳: おそらく、ニール・ウオーターズ教授 [学生の試験答案からウィキペディアの誤記述に気づいた、ミドルベリー大学史学科の先生] が、協働の精神で、この記事を修正してくださるでしょう。)
でもウオーターズ教授が修正する必要はない、と別の人から否定されている。
その後に、次のような指摘があり、さらに議論が続いている。
I find it difficult to understand why a professional who makes his living by disseminating his knowledge would want put his effort to edit at a place like here. Everything you put in here become GFDL. You can't even quote it as your own work once you do that. That's fine for amateurs, but what incentive does the professional have for such a "collaboration"?--75.28.163.95 05:24, 23 February 2007 (UTC)
(私訳: 自分の知識を広めることを生業とするプロが、ここのような場所で編集に力を注ぎたいと思うとは、私にはとうてい考えられないんだけど。ここに載せたものは全部GFDLになる。そうしたら、それを自分の作品として引用することすらできない。アマチュアにとっては問題ないけれど、そんな「協働」のどこに、プロにとってのインセンティブがあるだろうか?)
GFDLというのは、Wikipediaが利用許諾契約として採用しているGNU Free Documentation License (GNU フリー文書利用許諾契約書) のこと。GPL (GNU General Public License) と同様に、利用者が文書の複製、改変、再配布を自由に行うことを保証するが、オリジナルと同じ条件で複製、改変、再配布しなければならないというもの。Wikipediaは投稿者の著作権を認めないわけではなく、その反対で、むしろ著作権をそのように行使することに合意したものとして投稿を受け付けている。たぶん quote というのはいわゆる「引用 (citation)」ではなくて、自分がWikipediaに投稿した文章を自著作にも組み込むことを指していて、それ自体はできるんだけれども、GFDLを適用しないといけない、それではプロの書き手は困るんじゃないか、ということなのだろう。
さらに、いや、プロは自分自身の成果をWikipediaに出典として引用することができるというインセンティブがあるじゃないか、いやいや、それは「セルフ・プロモーションの禁止」に抵触するからダメだ、いやいや、ちゃんと記事に関係していてセルフ・プロモーション目的でなく、その記述をめぐる利害対立に関係していなければ認められるんだ、という議論が続いている。
このように、プロにとってのインセンティブという視点で議論が進んでいるが、川瀬さんの「川瀬のみやこ物語 episode2: ウィキペディアの使い方」には、「『そこまで暇じゃない』『名も知らぬ誰かに勝手に書き替えられるかも知れないという徒労感』」という理由が挙がっていた。
それから、sumita-mさん経由で知った、アリアドネの「ご自分の専門分野の記述に関して、ウィキペディア日本語版をどう評価されますか?」というアンケートの結果も興味深い。
Wikipediaは投稿者が守るべき基本方針・ガイドラインを掲げている (英語、日本語) が、それに反する記事もある。例えば、最近話題の奥谷禮子氏に関する記事にはかなり主観的な評価のまじった記述が見られる。ノート を見ると、それらの記述に対して出典を示すべき、という異論に対して、投稿者が「論理の正当性」を盾に反論している。これなどは、基本方針の「検証可能なことだけを書く」、「出典を明記する」、さらには「独自(未発表)の研究は載せない」に明らかに反していると思うのだが……。こういう、理想と現実の乖離が散見されるのも事実だ。茂木健一郎氏・養老孟司氏の件も記憶に新しい。
私自身は、冒頭に書いたように、間違っていたら修正できるんだからすればいいのに、と今でも単純に考えているのだが、そういうふうにコミットすることを前提に作られている、ということを承知しているかどうかが、過剰な期待や幻滅に陥らない鍵だと思う。
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