2007年12月5日水曜日

『宗教学文献事典』




島薗進・石井研士・下田正弘・深澤英隆編『宗教学文献事典』(弘文堂)が刊行された。

私も1項目だけ執筆させていただいた(実は校正ミスがあるのだが…)。

今まで重要だと思って購入したけれど積ん読状態になっている研究書というのが何十冊もたまっている。この事典を開くと、ああやっぱり読んでおくべきだとあらためて思う。

2007年9月28日金曜日

ラヴィ・シャンカールとノラ・ジョーンズは父娘

『TITLE』という雑誌を繰っていたら、小野リサが勧めるCDの中にノラ・ジョーンズが載っていて、そこの解説に、「ラヴィ・シャンカールの娘」と書いてある。

えっ、そういえば『地球交響曲第六番』にシタール奏者のラヴィ・シャンカールとその娘が出ていたが、あの娘がノラ・ジョーンズだった!? と驚いた。たしかロンドン生まれでラヴィの一番弟子だったはずだが……。

ネットでいろいろ調べてみると、シタール奏者になったほうはアヌシュカー・シャンカールと言い、ノラ・ジョーンズとは異母姉妹の関係らしい。

ラヴィ・シャンカル - Wikipedia

意外な事実だった。

2007年9月17日月曜日

日本宗教学会のホームページ

現在学術大会が開催中の日本宗教学会(私は昨日発表を終えた)のホームページがリニューアルされた。

日本宗教学会

新しいホームページでは、『宗教研究』の論文検索や、国内外の研究会開催情報が加わっている。

ちなみに『宗教研究』は、77巻2号(2003年9月)以降が、国立情報学研究所のCiNiiで全文PDF形式で公開されている。

CiNii - 宗教研究

2007年9月3日月曜日

小池靖『セラピー文化の社会学』

小池靖さんから、新刊の『セラピー文化の社会学―ネットワークビジネス・自己啓発・トラウマ』(勁草書房)をいただいた。



ネットワークビジネス、自己啓発セミナー、自助グループ (「トラウマ・サバイバー運動」) といった現象をフィールドに、心理学的な発想や態度の広がりを「セラピー文化」としてとらえ、それが現代に生きる私たちにとって意味するものを分析・考察するという内容で、1990年代前半からの十数年にわたる小池さんの研究の集大成。キーワードは「強い自己」と「弱い自己」、それから「ネオリベラリズム的な時代」(への適応/からの避難/etc.) か。こうしたテーマに関する評論はあまたあるけれど、手堅い社会学書としておすすめしたい。

2007年6月24日日曜日

宮家準先生の最終講義

神道宗教学会6月例会 宮家準先生國學院大學最終講義「霊山の社寺と修験―日本人の原風景を求めて―」

宮家準先生は慶應義塾大学をご退職後、5年間國學院大學で教鞭をとられた。その最終講義が昨日、神道宗教学会の主催、日本山岳修験学会の後援で催された。



2部構成で2時間以上にわたり、日本の山岳信仰・修験道の歴史と地域的展開を滔々と概説された。この5年間に國學院大學大学院の宮家ゼミ生をしたがえて歩まれた膨大かつ密度の濃い調査の蓄積に圧倒されるとともに、宮家先生の強調される「日本人の原風景」としての山岳信仰、そして修験道の活動について、自分がいかに中途半端であいまいな知識しか持ち合わせていないかを痛感、反省させられた。最後に後進の研究者、学生に向けての激励のお言葉を添えられたが、胸が熱くなった。

そして、司会の中山郁さん(國學院大學研究開発推進センター講師)の心暖まるはなむけの演出に感動。なんと、本物の修験者の方が教室に登場し、ほら貝を吹き鳴らしながら宮家先生を先導してしずしずと退場されていった。

ご著書の『霊山と日本人』と、21世紀COEプログラムの報告書をあらためて拝読しようと思う。

2007年6月16日土曜日

『願い・奉納物』



青山学院大学の近くにある青山ブックセンターで見つけた、絵馬・絵額をはじめとする日本各地のさまざまな奉納物の写真集。日常の行儀良さをはみだした笑いと切実さが同居していて、感動を覚えた。

2007年6月8日金曜日

映画『選挙』

映画『選挙』公式サイト

今朝、朝日新聞の「ひと」欄に監督の想田和弘さんが載っていた。その記事に書いてあったように、想田さんは東京大学の宗教学研究室の後輩だ。参院選が近い今、この映画に世間の注目も高そう。明日から公開だそうで、時間を見つけて観に行こう。

2007年5月25日金曜日

パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド

世界同時公開の今日、観に行った。この世界同時公開というのは海賊版対策なのだそうだ。つまり本国アメリカでの公開後、海賊版のDVDがアジア市場などに出回って、興行成績を低下させるのを抑えるためらしい。

3時間の超娯楽大作で、なかなか見応えがあった。それにしても、交易によって最大の利益を得るために海賊を滅ぼそうとする勢力が、海賊たちの団結によって倒されるというストーリー、そしてこの作品をアメリカで知的財産権保護強化をリードしてきたウォルト・ディズニー社が制作したことに、強烈な皮肉を感じるのだが。

2007年5月19日土曜日

JCMCの特集

Journal of Computer-Mediated Communication の特集、Cross-Cultural Perspectives on Religion and Computer-Mediated Communication が掲載されました。

JCMC Vol 12 Issue 3

一昨年のIAHR、昨年のAoIRでお世話になった Charles Ess さんが編集を務め (川端亮さんと私が協力)、日本からは深水顕真さん、田村貴紀さん・川端さん、渡辺光一さんが寄稿しています。

2007年5月12日土曜日

地球交響曲第六番

昼に恵比寿へ散歩に行ったら、ガーデンプレイスにある東京都写真美術館ホールで『地球交響曲(ガイアシンフォニー) 第六番』を上映していた。龍村仁監督による超有名なドキュメンタリー映画のシリーズの最新作だが、残念ながら私は今まで第一〜五番を観たことがなかった。ちょうどいい機会と思い、ホールに入った。

「虚空の音」というテーマで、何人かの日本のミュージシャンの演奏と、海外の著名な演奏家へのインタビュー、そして最後にクジラの歌を研究している海洋生物学者へのインタビューからなる内容だったが、なかでも私がいいな、と感じたのは、米アイダホ州に住むピアニストで、「私の使命は音楽の通り道になること」と語る、ケリー・ヨストのインタビューだった。この人の音楽家としての人生に対する謙虚さ、厳しさは、自然の完全さの認識、すべては予定されているという認識と深く結びついている。アイダホの大自然の中で車を運転しながら、カーステレオで自分の演奏の録音を聴いていたら、ふっと「これは自分が演ったんじゃない」と感じた、というエピソードも興味深かった。

東京都写真美術館では5月29日から6月8日まで、第一番〜第六番を一挙上映するそうだ。

2007年5月1日火曜日

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』


先月、アメリカのSF作家、カート・ヴォネガット・ジュニアが亡くなった。やはり、名前は知っていても作品をじっくりと読んだ経験がなかったので、本書を注文。奥付を見ると2007年4月30日22刷とあるので、訃報を受けて版元に問い合わせ・注文が殺到した結果増刷されたものだろう。私もその一人ということになる。

ヴォネガットは第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜となり、ドレスデンの収容施設で連合国軍による大爆撃を体験した。どうしたらその体験を書くことができるのか、という問いに対する答えが本書ということになる。「こんなに短い、ごたごたした、調子っぱずれの本」(30頁)。でもそこがすばらしい。

初めて読んだのに、全編に満ちた残酷な笑いのセンスには既視感というかなじみがある感じがわいてくる。自分の好きな映画監督(テリー・ギリアム、コーエン兄弟あたり)の作品に通じるものがあるからだろうか。

2007年4月26日木曜日

スタニスワフ・レム『大失敗』


装訂の美しさに惹かれて買った。新聞等の書評にもネット上の情報にも目を通さず、外部の関連情報をシャットアウトしてひたすら読み進めていったのだが、読み終えた後、そうしたことでこの作品の魅力を味わえたと実感する。支点のない情報が錯綜し状況が刻々と変化する中で登場人物たちが討議し、いくつかの有力な仮説が浮かび上がっては消えていく。そういう様子は、物語の力点や結末が見えていたら、あまり耐えられないだろうから。

そういうわけでここでもあまり作品内容の紹介はしたくないのだが、最低限のことだけ記しておく。先日も、「地球型生物が住める可能性がある太陽系外の惑星を、ヨーロッパ南天天文台(チリ)の研究チームが世界で初めて発見した」というニュースがあったが、そもそも、地球の他に知的生命体がいる可能性のある天体が発見されたとして、私たちはその異星人に会いたいと思うか? それはなぜか? 会ってどうするの? という疑問がある。去年読んだグレッグ・イーガンの『ディアスポラ』もその疑問に関係する小説として興味深く読んだが、この『大失敗』も同じ疑問に関係している。

異星人との相互理解の困難さ、不可能性については、私たちの世界の有り様から簡単に類推することのできる、きわめて説得力のある設定が用意されている。そこで、どうやってその困難を乗り越えていくことができるのか、というところに意識が前のめりになっていく。しかし、そもそも会ってどうするの? の部分についてわかりやすい答えが用意されているわけではない。むしろ、こういう困難さの中に、何としてもコンタクトを成功させたいという欲望が基礎づけられてしまっているのではないか、という疑いが頭をもたげてくる。

2007年3月31日土曜日

復元二題

熊本県人吉市と福岡県筑紫野市、太宰府市に行ってきた。目的についてはいずれ発表する機会があると思うので、ここでは寄り道したところについて記しておきたい。



人吉市は、JR人吉駅前から球磨川をはさんで人吉市役所のあたりまでが市街地になっている。徒歩でぐるりと回ってみた。人吉城址に近づくと、長い塀と櫓が目にとまる。壁の白さがまぶしい。

この長塀と櫓は、明治初めに解体されてあとかたもなくなっていたが、近年、発掘調査と、長塀と櫓があった当時に撮影された古写真をもとに、熊本県が復元したのだそうだ。史跡として復元するためには当時の形を実証する資料が必要なわけで、そういうところに古写真が決定的な役割を果たした例として、興味深い。



所かわって、太宰府では、おととしオープンした九州国立博物館に行った。巨大な建物にまず驚くが、中身も最先端技術や新しい工夫が盛り沢山だった。触れる展示というのはここでも取り入れられていて、銅鐸や銅鼓を叩いたり、遣唐使船の積荷だったということで香木や香辛料などの匂いをかいだりといった体験ができる。入ってはみなかったが、子ども向けの体験コーナーもある。また、ボランティアの案内係の方が何人かいらっしゃって、質問に答えてくださったり、見どころなどを解説してくださる。親しみ、暖かみのある雰囲気だ。

大阪市立東洋陶磁美術館収蔵の朝鮮白磁のコーナーに、ひときわ大きな白磁の壺が展示されていた (→九州国立博物館)。志賀直哉から東大寺管長に贈られたものだそうだが、1995年、東大寺に泥棒が入ったとき、泥棒がこれを割って粉々にしていったそうだ。それを東洋陶磁美術館が6か月かけて修復したということだが、その粉々の状態を撮影した写真も添えられていて、よくもまあ、ここまで完璧に復元できたものだと感嘆した。泥棒はまだつかまっていないそうだが、これを見たらさすがに改悛するんじゃないだろうか。

2007年3月18日日曜日

池田晶子『人生のほんとう』




2月23日に亡くなった、池田晶子さんの講演録『人生のほんとう』(トランスビュー、2006年)を読んだ。

訃報記事を見て、そういえば今まで池田さんの著書をちゃんと読んだことがなかったと思って、手にした。「池田某は確実に死にます。皆さんもそうです。確実に死にますが、しかし「死ぬ」という言葉すら超えた「存在」というものに気がついてしまうと、池田は死ぬが私は死なないと、そういう変な言い方が出てきたりします。」(175頁)とか、「つまり、死者の言葉をわれわれは読んでいるわけです。」(179頁)といったくだりがあり、ドキリとする。

常識・社会・年齢・宗教・魂・存在という、6つのテーマに沿いつつ、「存在とは何か」という哲学的な問いを起点として人生を考えるという内容。

この本で繰り返し強調される、自分が生きているということの形式的な「謎」に、私が記憶するかぎり初めて思い至ったときの体験を回想しながら読み進めた。

私の場合、小学生のころ、遠足で山登りをしていたときにふいに思い至った。山頂にほど近いところで、汗をかき、足を痛めて、眼前の山道を見ているこの私はいったい何なんだ。視界の右端に自分の右手が見え、左端に自分の左手が見える。正面には山道がある。当たり前のことのようだが、このような視界でもって今ここを生きているのは、そしてこんなことを考えているのは私以外の何者でもないのではないか。

そういう体験をした後は、ほかならぬこの私が20世紀(そのときはまだ20世紀だった)の日本に生きていることの不思議や、私が死んだらどうなるんだろうということをときおり考えるようになった。また、山登りをすると再び同じような体験をした。

この本には、宗教やネット社会など、私も関心をもっているさまざまな事柄について興味深い知見が記されているけれど、そちらよりも、この私にとって起点となる哲学的体験を思い返させてもらえたことが貴重な読書経験になった。

2007年3月7日水曜日

ドリームガールズ

仕事の合間をぬって観てきた。

シュープリームスをモデルにしたブロードウェイ・ミュージカルの映画化。ストーリーは紆余曲折あるものの、細かいところは気持ちいいくらい端折って、全編、歌ときらびやかなショーの映像に乗って、どんどん進んでいく。ラストの大団円もミュージカル的だ。

やはり評判のとおり、ジェニファー・ハドソン演じるエフィに最も感情移入させられた。自他ともに認める歌唱力にもかかわらず、プライドが高く妥協できない性格が災いして、しまいにはトラブルメーカー扱いされていく。こういうときのいらだち感、だれしも経験があると思う。強引かもしれないが、町田康『告白』の主人公にも少し通じるところがあるような気がした。

エフィだってもっとうまく売り込めば人気歌手になれただろうに、アレサ・フランクリンのように……と思ったら、アレサ・フランクリン当人の前で Think を歌う映像が YouTube にあった。→YouTube - Jennifer Hudson - Think

ビヨンセはこの映画では抑え気味で、最後に近くなって Listen という曲でようやくパワフルな歌唱が炸裂する。彼女に期待していた人はフラストレーションが溜まったかもしれない。ビヨンセも、大御所ティナ・ターナーの前で熱唱する映像があった。→YouTube - Beyonce - Proud Mary - 2005 Kennedy Center Honors ティナ・ターナーの横にいるのは、ジョージ・ブッシュ?

2007年3月1日木曜日

インセンティブというパラダイムの妥当性

昨日書いたことや、それから以前に学生が大学の授業改善や入学広報などに自主的に参画することについてちょっと書いたこととも関係するのだが……。

私は、なぜだかわからないけれども、「インセンティブ」という考え方に強い心理的抵抗感を覚える。

他人から与えられるインセンティブもそうだが、自己管理の方法としても、よく「自分にごほうびを与える」ということが勧められたりする。しかしそういうことには全く乗り気がしない。怠け癖が治らないのもそのせいか。そのわりに、後で冷静に考えるとつまらないことにがぜんやる気を起こすこともある。

先日パオロ・マッツァリーノの『つっこみ力』(ちくま新書)を読んでいたら、インセンティブ批判が出てきた。これはわが意を得たり、か? と思いつつ、ところどころ文脈が不明なところに首をかしげながら読んだけれども、後でこの本を取り上げたブログを拾い読みしたら、前著の『反社会学の不埒な研究報告』の内容について経済学者と激しく論争したことが、このくだりの背景にあるらしいことがわかった(Entertainments Lovers Live: マッつぁん、またまた必死だな)。私は、あのスタンダード 反社会学講座というサイトを、誰に求められるでもなく発信しつづけてきた作者ならではの実感もあるのかな、と勝手に推測していたのだが。

私も経済学のことはわからないので、いろいろ調べながら考えてみよう。

2007年2月28日水曜日

プロの書き手がWikipediaにコミットしない理由?

前回の記事の最後に、こう書いた。

学生のリポートから、島原の乱についてのウィキペディアの誤記述に気づいたという先生は、その後ウィキペディアの記事を修正したのだろうか? そのまま放置したのなら残念だ。



Wikipedia(英語版)の島原の乱のtalk page (記事の編集について議論するページ) を見ると、そこにもこういう指摘があった。


Perhaps Prof. Neil Waters can come and fix up the article in the spirit of collaboration etc. - Tragic Baboon (banana receptacle) 12:04, 21 February 2007 (UTC)


(私訳: おそらく、ニール・ウオーターズ教授 [学生の試験答案からウィキペディアの誤記述に気づいた、ミドルベリー大学史学科の先生] が、協働の精神で、この記事を修正してくださるでしょう。)

でもウオーターズ教授が修正する必要はない、と別の人から否定されている。

その後に、次のような指摘があり、さらに議論が続いている。


I find it difficult to understand why a professional who makes his living by disseminating his knowledge would want put his effort to edit at a place like here. Everything you put in here become GFDL. You can't even quote it as your own work once you do that. That's fine for amateurs, but what incentive does the professional have for such a "collaboration"?--75.28.163.95 05:24, 23 February 2007 (UTC)


(私訳: 自分の知識を広めることを生業とするプロが、ここのような場所で編集に力を注ぎたいと思うとは、私にはとうてい考えられないんだけど。ここに載せたものは全部GFDLになる。そうしたら、それを自分の作品として引用することすらできない。アマチュアにとっては問題ないけれど、そんな「協働」のどこに、プロにとってのインセンティブがあるだろうか?)

GFDLというのは、Wikipediaが利用許諾契約として採用しているGNU Free Documentation License (GNU フリー文書利用許諾契約書) のこと。GPL (GNU General Public License) と同様に、利用者が文書の複製、改変、再配布を自由に行うことを保証するが、オリジナルと同じ条件で複製、改変、再配布しなければならないというもの。Wikipediaは投稿者の著作権を認めないわけではなく、その反対で、むしろ著作権をそのように行使することに合意したものとして投稿を受け付けている。たぶん quote というのはいわゆる「引用 (citation)」ではなくて、自分がWikipediaに投稿した文章を自著作にも組み込むことを指していて、それ自体はできるんだけれども、GFDLを適用しないといけない、それではプロの書き手は困るんじゃないか、ということなのだろう。

さらに、いや、プロは自分自身の成果をWikipediaに出典として引用することができるというインセンティブがあるじゃないか、いやいや、それは「セルフ・プロモーションの禁止」に抵触するからダメだ、いやいや、ちゃんと記事に関係していてセルフ・プロモーション目的でなく、その記述をめぐる利害対立に関係していなければ認められるんだ、という議論が続いている。

このように、プロにとってのインセンティブという視点で議論が進んでいるが、川瀬さんの「川瀬のみやこ物語 episode2: ウィキペディアの使い方」には、「『そこまで暇じゃない』『名も知らぬ誰かに勝手に書き替えられるかも知れないという徒労感』」という理由が挙がっていた。

それから、sumita-mさん経由で知った、アリアドネの「ご自分の専門分野の記述に関して、ウィキペディア日本語版をどう評価されますか?」というアンケートの結果も興味深い。

Wikipediaは投稿者が守るべき基本方針・ガイドラインを掲げている (英語日本語) が、それに反する記事もある。例えば、最近話題の奥谷禮子氏に関する記事にはかなり主観的な評価のまじった記述が見られる。ノート を見ると、それらの記述に対して出典を示すべき、という異論に対して、投稿者が「論理の正当性」を盾に反論している。これなどは、基本方針の「検証可能なことだけを書く」、「出典を明記する」、さらには「独自(未発表)の研究は載せない」に明らかに反していると思うのだが……。こういう、理想と現実の乖離が散見されるのも事実だ。茂木健一郎氏・養老孟司氏の件も記憶に新しい。

私自身は、冒頭に書いたように、間違っていたら修正できるんだからすればいいのに、と今でも単純に考えているのだが、そういうふうにコミットすることを前提に作られている、ということを承知しているかどうかが、過剰な期待や幻滅に陥らない鍵だと思う。

2007年2月23日金曜日

ウィキペディアからの引用禁止をめぐって

asahi.com:ウィキペディア頼み、誤答続々 米大学が試験で引用禁止 - 国際

Middlebury College - Wikipedia, the free encyclopedia

History department makes news with its stand on student use of Wikipedia (Middlebury Collegeのニュースリリース)

このニュースについてはいろいろ考えるところがあるのだが、とりあえず。

* ネット上のソースからの引用について、大学・学部として方針を示したという例は初めて聞いた。教員が個別に指導、対処することはもちろんあるけれど(私もそうしてきたが)。たしかに、統一方針を出したほうが、いろんな講義を選択する学生にとって不公平がないかもしれない。

* ウィキペディアからの引用を認めない、という方針は単純明快でわかりやすい。しかし、 "Students are responsible for the accuracy of information they provide," (Middlebury Collegeのニュースリリース) と、学生側には高いモラルを要求しておきながら、この単純明快な方針だけでは、教える側の責任をないがしろにしているようにも見える。

学生が今のネット環境に慣れていることを前提に、ネット上のソースを単に無視するのでなく、批判的に参照するように指導することのほうが有益だ。とは言え、期末の試験・リポートではどうしようもないので、私は授業中の提出課題でそういう要素を盛り込むようにしている。

* 出典を明記しない引用は論外。これは引用ではなく盗作。授業中で口をすっぱくして戒めてきたし、そのようなリポートを提出した学生には単位を与えない方針で臨んできたので、さすがにこれはほとんどなくなった。

* 学生のリポートから、島原の乱についてのウィキペディアの誤記述に気づいたという先生は、その後ウィキペディアの記事を修正したのだろうか? そのまま放置したのなら残念だ。

2007年2月18日日曜日

調べる、資料化する、共有する

昨日は、東京大学創立130周年記念公開シンポジウム「知の構造化と図書館・博物館・美術館・文書館 − 連携に果たす大学の役割」を聴講しに行った。

「知の構造化」というのは小宮山宏・東大総長の掲げるスローガンで、文系の学問領域ではそれが何を意味し、またそれを進めるために何が必要か、という問いが出発点にあったようだった。3人の発表者、3人のコメンテーターの方々の知見がとても深く、考えさせられた。

デジタル化とインターネットの普及が進むこの時代に、領域横断的な資料へのアクセスやメタデータの標準化が必要なことは十分認識しつつも、資料の扱い方の差異にも目を向ける必要があること。構造化とはむしろ、対象を資料化して研究するというプロセスそのものを自覚的にとらえ直し、根拠にもとづいて組み直していくことであるということ。そのあたりも含めて共有化のプラットフォームや人材育成のプログラムをデザインしていくことが、人文科学の知をこれからも豊かにしていくための鍵なんだ、というふうに理解した。

10日に最終シンポジウムを終えた國學院大學でのプロジェクト、「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」でも、結局はそこがキーポイントだったんだということがわかってきた。現時点で公開している学術資料データベースのサイト上では、そのあたりのことが利用者に伝わりにくいので、現在準備中のリニューアル版では改善する予定だ。

2007年1月27日土曜日

Blue King Brown, STAND UP


リンク先は Amazon ですが、私は iTunes Store でダウンロード購入して聴いています。本当に楽しくてカッコイイ音楽に久々に出会ったという感じです。オーストラリアのバンドだそうで、昨年夏に行ったせいか、余計に肩入れしてしまう。

2007年1月22日月曜日

芳賀学・菊池裕生『仏のまなざし、読みかえられる自己』


著者の芳賀学さん・菊池裕生さんから、新刊の『仏のまなざし、読みかえられる自己—回心のミクロ社会学—』(ハーベスト社)をいただいた。

仏教系新宗教の「真如苑」で行われている青年部弁論大会という行事をとりあげて、宗教心の中核にある「回心」がどのような社会的プロセスの中で編み上げられていくのかを詳細に記述、分析した研究書である。

85万人の信徒を抱える教団とはいえ、一つの宗教団体の内部で一般信徒が行っている信仰活動に集中した研究ということで、宗教に対する世間一般の興味関心からすると少し遠い内容という印象をもたれるかもしれない。しかし、それゆえにこそ、こうした活動への注目が宗教を理解する上で必要であることが、第一章ではっきりと示されている。

そして、理論的支柱になっている「自己物語論」やフィールドワークの方法論などにも、学び得られるところが大きい。

2007年1月19日金曜日

うなずく

運転免許更新のために警察署に行ったときのこと。

無事故無違反の優良運転者なので、警察署内で30分ほどの講習を受けた。待ち合いスペースの端に、ついたてで囲まれた一角があって、そこにテレビモニターと椅子が並べられている。

そこでビデオを観るだけかと思っていたら、その後に口頭でのレクチャーがあった。内容は、昨年の交通事故件数のランキングや、交通法規の最近の改正点など。その時間に講習を受けていたのは私ともう一人だけで、ただただ、うなずきながら聞くしかなかった。

後で考えてみると、実は同じようなシチュエーションを、いつもは逆の立場で経験しているのだった。授業で、最前列に座っている学生がうなずき返してくれると、私の話をわかってくれたんだな、と安心することが多いのだが、それは微妙に勘違いをしていたのかもしれない。話の内容を理解したとかではなく、ただ話を聞いてますよ、というときの当然の身振りとして、うなずき返しているにすぎなかったのだ。

とはいえ、ただの身振りだからといって馬鹿にはできない。齋藤孝さんがどこかの本で書いていたが、うなずくというのは話し相手に対して信頼と承認を示す一番基本的なコミュニケーションだろう。ときどき、間近で目を見て話していてもジーッと固まっている学生に出くわすことがあるが、あのときの違和感といったらない。うなずくというような、基本的な身体の動きを大事にしたい。

2007年1月18日木曜日

3つめのシンポジウム

シンポジウム「画像資料アーカイヴスと人文科学−劣化画像は救えたか?−」

前に書いたように、2月10日に、宗教研究者としてぜひ行きたいシンポジウムが2つ重なってしまった。それで迷っていたのだが、なんと、学内で自分が関わっているプロジェクトのシンポジウムもその日に行われることになっていた。しかも自分も報告者。うー、残念。